The Valentine Capriccio 中編


「只今、三成さん」

そう云って玄関を開けた俺を迎えたのは、無人の部屋。
ドアに鍵がかかっていたので「もしや」と思ったのだが、その考えは間違ってはいなかった。

電灯の点らぬ部屋と冷えた空気。それらが、同居の恋人の不在を物語る。
時刻は午後9時前。
会社を出る前に、帰宅を告げる電話を入れたのが午後8時頃。帰りがけにデパ地下で適当な食材を買って帰ると入れた留守番電話のメッセージは誰にも聞かれることなく、電話機が赤い着信ランプをチカチカとさせていた。

「どこに行ったんだ?」

そう云って俺はいるはずもない人を探して、きょろきょろと部屋も見回す。

特別に大学のサークル活動をしているわけでも、アルバイトをしているわけでもない。
講義が終わったら、大抵お気に入りの場所で読書に耽ったり、友人たちを談笑をして家路につくのが日課となっている。けれど、どんなに遅くても8時頃には家にいる。そして、俺がドアを開けると子犬のように駆け寄って「お帰り」と云ってくれる。

しかも今日は、バレンタイン。
昔は気にも留めなかった季節行事。それも彼と一緒になってからは、楽しいイベントに早変わりをした。
今日は仕事があるため、本格的なディナーの準備はできないが、彼の好きな甘めの白ワインを冷やし、それにあわせてデパ地下で買い求めた洒落た総菜類やチーズで、夕食を共に楽しむ予定だった。
こんなイベントを楽しめるようになったのは、彼も同じの筈。だから、今日は絶対に家にいるはずだと思っていたのに、肩すかしを食らった気分だ。


     まぁ、特に約束をしていた訳じゃないけどさ


俺は、買ってきた食材をテーブルにおいて携帯を取りだした。
念のために着信履歴やメールを確認するが、目的の人からの連絡はなかった。


     もしや、何か事故にでも?


途端に不安が黒く染みのように広がっていく。その時――――

「ただいま」

冷たい鉄製のドアが開く音と聞き慣れた声。驚いて振り返った先には、三成の姿。急いでいたのだろうか? 息が少し上がっている。
琥珀色の瞳が俺を捉えると、俺が口を開く前に三成が先に口火を切った。

「す、すまない左近。連絡もいれずに遅くなって……。急いだんだけど、その……走るわけにはいかなくって……」

そういう彼の手には、紙袋がふたつ。
ひとつは、見慣れた三成のお気に入りのケーキ店のロゴ入りの紙袋。もうひとつは無地の大きめな紙袋。
上がった息と外の空気の冷たさが、白い頬を微かに赤く染めている。急いでいたというのは本当のようだ。お気に入りのケーキを買いに行ったのはいいが、予定より時間をオーバーしてしまったというところだろう。
小言のひとつやふたつ云いたいが、ここは我慢。折角のバレンタイン。ケンカでもしてぶち壊したくはない。

「どこかに買い物に行っていたんですか?」
「うん。あの……これを…」

そう云って三成は、ケーキ店のロゴ入りの紙袋を差し出す。俺は、紙袋を受け取り中身を確認する。中には三成が買うにしては小振りな箱。それも、綺麗なピンク色にリボンが飾り付けられていて随分と可愛らしい。


     これはひょっとして……


脳裏に閃いた単語をあえて飲み込み、三成の言葉を待つ。どうせなら、この可愛い恋人の口から中身を告げて貰いたい。

「そ、それ……バレンタインのチョコレートケーキだから……」

予想通りに言葉。俺は両の頬が緩むのを抑えられそうもない。

「わざわざ俺のために? ありがとうございます」
「最初は、デパートとかで売っているいろんな種類のチョコを買いに行こうとしたんだけど……。ほら、左近が食事に連れて行ってくれたホテルのチョコとかいろいろあったし」

季節限定の様々なチョコレート菓子。売り場を遠目から覗くだけでも、目移りしてしまいそうなになる。それを目の前にして、甘党の三成は、さぞや迷ったことだろう。そう思うと少し可笑しくなる。

「お、俺が食べたかった訳じゃないからなッ!」

零れた笑みの理由を勘よく察して、三成がプウッと抗議の声を上げる。

「はいはい。わかっていますよ。それで?」
「でも、恥ずかしいというか……ちょっと怖くて買えなかった」

怖い?
そう云えば、確かにバレンタイン前のチョコレート売り場は、いわば乙女の戦場。人気の店の商品など、バーゲンさながらの混雑振りだったろう。
そこに男の三成が飛び込んで好奇の視線に晒されるのは、かなり勇気がいる。思わず尻込みしてしまっても文句など云えようもない。俺だって遠慮したい。

「それで、いつものケーキ店のケーキですか?」
「でも、いつものケーキじゃないぞ。開けてみろ」
「どれどれ……」

そう云う三成の目はキラキラとして、本当に楽しそうだった。その目に誘われて、俺もウキウキと楽しい気分になってくる。
テーブルにおいたピンクの小箱。飾りのリボンをそっと外し、ゆっくりと蓋を開ける。
俺の横では、三成が期待に満ちた目で俺の様子を窺っている。

「ッ! これはすごいですね」

ピンクの小箱に収められていたのは、茶色の宝石。大きさは丁度ふたり分。
小振りのホールケーキは、一流のパティシエの店で作られる芸術品たちと何ら遜色がない。細かい飾りのチョコや飴細工などは、驚く程繊細だ。これはどう見ても特別仕様。既製品ではなく注文されたものだろう。

「いくら常連だからって、よくこんな注文聞いてくれましたね」

オーナーもここ数日は、とても忙しかったろうにと問えば、三成は首をフルフルと横に振る。

「ううん。オーナーじゃなくて吉継にお願いしたんだ」
「えッ……」

ほんの瞬間、停止する思考。


     これ、作ったのが大谷吉継!?


三成の義理の兄(秀吉夫婦に預けられた経緯不明)、大谷吉継は三成お気に入りのケーキ店で働いているのは知っている。だが、まさかここまでの腕だったとは……
そんなことよりも、俺は大谷吉継の柔和で人の良さそうな笑みを思い浮かべる。と、同時にその裏側にある第二の顔も脳裏に蘇る。
初めて会った時の燦然と輝く柔らかい笑みと、背後で『ゴゴゴ』という擬音が付きそうな勢いで燃え上がっていた黒い炎。擬音と炎を背負って俺の肩に置かれた手は、見た目に反して力強く俺の肩に青あざを残しした。
そして一言――――――

「三成を泣かせたら、どうなるかおわかりですね? まぁ、そんなことにはならないと信じてはいますよ。でも、万が一、てことがありますからね。あ、そうだ。昔、三成を苛めた連中がどうなったかお聞きになります?」

今でも思い出しただけで、冷や汗が背筋を伝う。

「ヘェ……大谷サン。ナカナカヤリマスネ」
「そうだろう? 左近のために甘さ控えめでってお願いをしたら、特別に仕入れたベルギーの高級チョコを使ったて」
「ホッホウ、ソレハソレハ……」

特別に仕入れたチョコ以外にも、特別な何かが入っていてもおかしくはない。いや、そこまで穿ってみるのは流石に失礼か? イヤでも……
大きさから見て、このケーキはふたり分。三成とふたりで分けろという意味だろうから、怪しげなものは入ってはいないだろう。

俺の葛藤など知らずに三成は至極楽しげだ。自慢の義兄の作品を褒められて嬉しくない義弟などいないのはわかってはいる。しかし、俺の微妙な心理もわかって欲しい。だがしかし、恐らくそれは無理だろう。
三成は大谷を全面的に信頼をしている。当然、あの裏大谷を知る由もない。だからといって、裏大谷の顔を三成に話して、それが原因で仲のよい兄弟でケンカ。挙げ句に悲しむ三成の顔など見たくはない。
大谷も俺のそう云った心理を巧く突いて攻撃をしてくる。
厄介この上ないが、これが世に云う嫁姑問題というヤツなのだろう。シナリオは兎も角、配役は微妙なところだが……



俺は一息吐いて気分を変える。
見え隠れする大谷吉継の影に怯えてばかりいるのも癪だ。何より、折角の聖なる恋人たちの夜。たっぷりと楽しまずに如何する?

「じゃ、そのケーキは後で頂きましょうか? 切っちゃうのが勿体ないですけどね」
「うん、そうだな……」
「夕食。三成さんの好きなワインに合わせて、いろいろと買ってきたんですよぉ。楽しみでしょう?」
「う…うん……」

おや? 微妙に歯切れの悪い返事。
琥珀の瞳は困ったように顰められ、口元は何かを言い難そうにモゴモゴとしている。

「どうしました?」
「じ……じつは……」

三成は、悪戯を見咎められた子供のように重い口をゆっくりと動かす。

「吉継のところで……ご馳走になったんだ」
「え?」
「約束のホールケーキをわざわざ大学の方まで届けに来てくれて……そ、それで……吉継が、ちょっと相談したいことがあるから夕食がてら部屋に来ないかって云われて…………」

バツが悪そうに語尾が段々と小さくなる。

「それで…吉継の部屋に行ったら…何故か吉継がフルコースを用意していて…。で、でもちょっとのつもりだったんだ。だけど、すごく美味しかったから……つい……」

コトリと白い首を傾げる。

「それで、おなか一杯になってしまって……」

元々、三成はそう食が太い方じゃない(もっとも、甘いものは別腹のようだが……)。フルコースなんぞ食べさせられたら、当然満腹になるわな。
俺は少々唖然としながらも、「それは…しょうがないですね」と苦笑いを浮かべる。そんな俺の態度を「落胆」と受け取ったのか、三成が必死に俺を宥めにかかる。

「ごめん。すまない。左近ッ! 吉継も左近にすまないと云っていた」
「大丈夫ですよ。怒ってはいませんから……」

そう。三成に怒っても仕方がない。この事態を企んだのは別の人間なのだから……
今頃、自分の計略が見事に嵌ったことをほくそ笑んでいることだろう。

「本当に怒っていないか? 左近、怒っていないか??」
「怒ってはいませんよ。でも、デザートのケーキは一緒に食べてくれるんでしょう?」
「もちろん、そのつもりだ」

あーぁ、そんな半泣きの顔で、「怒っていないか」と云われたら、「怒ってないですよ」って微笑んであげたくなるじゃないですか。
きっと大谷も、三成のお願いとは云え俺のためのバレンタインケーキ作りなぞ、さぞや、腸煮えくり返る思いだったろう。そう想像すると自然と口許が上がってくる。
緩んだ俺の頬を見て三成も漸くホッと息を吐く。

「そうだ。吉継が左近の分も料理を作ってくれたんだ。もうひとつの紙袋に入っているぞ」
「へッ?」

そう云って無地の紙袋を手渡された。三成はというと、料理を盛るための皿を取りにさっさと台所へと向かってしまう。
ケーキには何も仕込まれていないと思う(だって、あれは三成も食べるし)。が、こっちの料理には何が仕込まれているか目下のところ不明。
渡された無地の紙袋を疑い深げにジッと見入っていると、皿を手に戻ってきた三成が不思議そうに小首を傾げる。

「どうしたんだ、左近?」
「イエ、ナンデモナイデスヨ」
「吉継の料理、すごく旨かったぞ。あいつ、ケーキだけじゃなくフルコースの料理もプロ並みだな」
「ハハハ、ソウデスカ……」

などと、鼻歌交じりに皿を並べる三成。俺の不安な心など微塵も気付いていない。
だが、ここで妙な態度で躊躇していたら三成が不審に思う。


     えぇい、こうなったら大谷の良心に期待するしかないッ!


覚悟を決めた俺は紙袋から数種類のタッパを取り出す。――――

「なんだ、これ?」

紙袋の底には、透明なビニール袋に入った黒い布地のようなものがあった。ちょうど、クリーニングから戻ってきた衣類のような印象。
不思議に思いそれを手に取ってみる。何かが床に落ちた。





2007/02/16